サウジと教育と鬼の子ども

12時に起き

韓国語を2時間勉強し(内訳:1時間50分Youtube視聴、10分勉強)

暇だったのでツタヤにDVDを借りに出かけたが

途中で車にガソリンを給油したら

昨今の灯油高のせいで思った以上に高くかかってしまった

ショックで旧作DVDレンタル100円にもお金を払うのが惜しくなり

貧乏の味方、図書館に行った

経済情勢に右往左往される消費者のロールモデルである・・・

悲しみ多め

そんななか、石油王が来日でサウジ特需が起こるらしい

こちとらガソリン高で苦しめられているんだから私の手元にもサウジ特需の恩恵が届いてほしい

日本の田舎を体験したいとか言って私の地元に来て

シャッターアーケード街で私を見かけて

あんなにモサい女見たことないって面白がってくれて

3億くらい私に募金してほしい

 

それはさておき、公共施設は貧乏の味方☆図書館でこんな本を読んだ

 

娘と話す 世界の貧困と格差ってなに?

娘と話す 世界の貧困と格差ってなに?

 

 

そうしたら最近ぼんやりと考えていたこととぼんやりリンクしたので書いてみる

 

この本は南北格差つまり世界の格差について書いている

そこでこんな言葉が出て来た

南は今まで援助や助言を受ける側であったが、

「権利の主体」に変貌を遂げた と

 

大学の時に文化人類学の授業でこんな話を聞いた

近代になっても、電気も教育も文明という言葉の概念さえない少数民族の話

確かではないがアボリジニだったように思う

彼らの土地には世界的に見ても希少な植物が多くて

先住民はそれら植物を独自に配合し薬として使っていた

 

そうしてある日、欧米の薬品会社がそれに注目する

彼らの持つ植物と彼らの知恵を借りて有効な薬を販売することに決めた

 

その結果、希少な植物は取りすぎて土地からなくなってしまったし

先住民の知恵はただ同然で使われた

 

けれど先住民の感覚としては最初は搾取されたという考えはなかったようだ

自分たちだけだった世界に製薬会社が来て

訳の分からないうちに大変なことになっていた

私たちの感覚からすると、それは搾取なんだけれど

彼らはそういう発想自体を持っていなかった

自分たちの知恵が「使われる」という感覚も持っていなかったんだろうと想像できる

 

この出来事を経て初めてその民族は権利という概念を持ち

製薬会社に対抗することにした

希少な植物はもう数が少なくなっていて手遅れだった

その民族が権利を訴え始めたきっかけが

自分たちで気付いたのか

搾取されていることを問題視した先進国の人々からの働きかけだったのかは忘れてしまったけど

 

もしもこの民族に権利という概念が伝わっていたなら

最初から製薬会社を拒むことも出来ただろう

 

教育がないから権利を奪われる

教育があって、彼らが英語を理解出来て、

権利という概念を持っていたなら少なくとも

薬を彼らと無料で共有するか、報酬をもらって共有するか、拒むか、

など様々な選択が出来たのではないだろうか

 

けれど教育とは「外から入ってくるもの」であると私は強く感じていて

それは「違う価値観に触れること」と同意だと思っているのだけれど

だからこそ私はここでジレンマが生じている

 

もしも少数民族が世界の他のだれにも見つからないままいたら

従来の自分たちの生活をずっと続けられただろうけど

多様な世界を知らなかったし世界の豊かさを共有出来なかった

他の世界と戦う術も知らなかった

 

少数民族は見つかったから

搾取され彼らの生活を崩壊され

それでも「欧米に搾取されてはいけない、自分の権利を守ろう」という考えを持った

そして周りの友達とか家族とかにもその考えを啓発しただろうし

これはまさしく教育というと思う

 

これって彼らにとっては果たしてどっちがよかったの?ってことを考える

 

価値観の多様化とか教育とかって言葉はいいイメージがあるけど

それは本当にいいことなんだろうかってことを

最近ぼんやりと考えていた

答えが出ようが出まいが意味のないことをぼんやりと考えることは、寝る直前のぼんやりと似ていて気持ちいいから(メンヘラだよ)

 

 そしてこういったことを考えるとなんかこの広告を思い出す

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出典:2013年度入賞作品|新聞広告データアーカイブ

自分の世界を伝えることはいいけど

その教育によってその人は本当にいい運命になるんだろうか

私の価値観は本当に絶対的なものなんだろうか

私たちは鬼を殺した桃太郎を英雄と認めることを価値観として持っているけど

鬼の子どもという側面を見落としてないだろうか

 

例えば、中国の纏足ってあるでしょう

女の子の足をきつく縛って小さく変形するやつ

あれは中国では美しいものとしてみんなが疑問もなく受け入れて来た

それを悪習として他国が廃滅を呼びかけ、少しずつ廃れた

 

なんで私たちは纏足を他国の文化として受け入れず

非人道的なものとして禁止するべきと言ったのだろうか

私たちが到底理解出来ないような気持ちの悪い制度だったから?

身体的な苦痛が可哀想だから?

彼らの美の意識は無視?

 

(けれど教育を否定してして

君らの好きなようにやってくださいと言うと

南側の貧しい環境とかナチスとか北朝鮮とかを正当化してしまうことになる)

 

最近大学の先生が言っていたことに少し共感できた気がしている

「なるべく価値観というものから離れる努力をしている。

人間というのは生まれた時から周りの環境によって考え方を形成されるものであり

完全なる価値観からの解放は出来ないということは分かっている。

それでも様々な物事に疑問を持ち、縛られず、思考から離れたい。」

当初は、何言っているんだ、変な学部に入っちゃったなあ、と思っていたため

詳しくは覚えていないし私の解釈が間違っている可能性も大だけど

私も今の価値観から離れてみたいな